少しずつ奪われてきた役割

 「内容が難しい!」というご意見を多々いただきました。いろいろ考えると、伝えたいことが多くて、どうしても小難しくなって・・・。短く、分かりやすく書けるよう、頑張りたいと思います!

 

 今日は「労働のあり方」について。世界中の研究結果を調べ、これまでの実践をふまえて考えると、理想的な「労働のあり方」とは、次の内容に尽きる。「一人一人が社会の中で役割をもてる仕事がある」ってことである。それって、なんじゃろな?

 

 昔は結構、「役割=仕事」という構図が成り立っていた。火守りだったり、水汲みだったり(古い?!)、タバコ屋の番をするよく居眠りしているおばあちゃんであったり。直接、そこに対価の支払いが発生しなくても(シャドーワークかもしれないが)、その人がいないと生活が回らなかったり、みんなが困ったりするので、それが仕事として認められ、その人が担うものとして社会的な役割が与えられてきた。そして、その人がいなくてはならない尊い人とみんなが考えていなくても、なんとなく、「いないと困るよね・・・」、みたいにそこに存在したはずだ。

 

 そういった役割は、「認められたい(人としてそこに存在していると感じたい)」とか、「一緒に盛り上がれる仲間がほしい(だれかがそこにいて話ができる)」、「もっとできるようになりたい(他の仕事も頼まれればできるかもね)」、そういった人間の根源的な欲求とか想いとか、そういうものが満たされる可能性が高かったのである。 

 

 今は文明の発達(資本主義の凌駕)によって、そういった、なんでもないけど、実は必要な仕事がなくなってしまったけれど(いや、あるけれど、価値を置かれなくなったというのが実際のところ)。

 

 こういった現象が、障がい者や高齢者といった、現在、社会的弱者と言われている人たちを、本当に「弱者」に追いやってしまった理由だと考えられている。社会における役割まで奪っちゃったのだから。これは社会福祉分野でよく言われる、「障害」の考え方だ。障がいや弱者は社会によってつくられる、という意味だ。